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谷口暁彦 『日々の記録』

本当は、雑誌に載っているようなオシャレできれいな家にすみたいけれど、いま住んでいるのはごく普通のアパートだし、生活していると、どうしてもだんだんと物が増え、片付けられなくなって家は散らかってくる。

気づいたらなるべく片付けるようにしているけれど、それでもずっと同じ家で過ごしているものだから、散らかっている状態に慣れてしまって、そもそもどこが散らかっていて、どこが片付いているのかよく分からなくなってくる。

料理を作って、一気に散らかる台所はいいけれど、なにもないようなリビングの隅とかは、気づかないうちに、少しずつ、ゆっくりと散らかっていくから、なかなかその変化に気づかない。だから、日々、注意深く散らかっていく様子を、観察したり記録しておかなければ、きっとそうした変化を見過ごしてしまうだろう。

でもこうして、本当にどうでもいい、出来事と出来事の間にあるような、何も起きない、日々のゆっくりとした変化について思うと、そこには自分が歳をとっていくことのような、元には戻せないどうしようもなさがある気がしてきて、片付けようとか、何かをしようっていう気持は薄まってしまい、なにもせず、ただもう「家で寝てるほうがマシ」って気分になって
くる。


 

[essay: 情報と物質とそのあいだ]

 

物質には情報がある。だから、物が多すぎて散らかってしまったこの部屋には情報があふれているはずだ。この家に住み始めて3年になるが、だんだんと物が増えてきて、片付けきれなくなってきた。特に、仕事が忙しい時や、作品の展示準備をしている時は、足の踏み場がないくらいに散らかってしまう。忙しいと片付ける暇もないし、散らかった状態がしばらく続けば、それが普通になって、片付けようという気も起きなくなってくる。飲み終わったお茶のペットボトルや、積み重なったレシートの山、その山に紛れてしまった先月の電気料金の支払い票など、様々な物で空間が埋まっているが、それらの物には何かしらの情報がある。まずその物が何であるかという、その物自体の情報と、それが例えば、食べ終わったコンビニのおにぎりの、ビニールの包装であれば、賞味期限や成分、カロリーなどの表示がびっしりとちいさい文字で書かれていたりする。だから、この散らかった部屋には情報が溢れているはずだ。けれど、散らかった状態に慣れてしまっていると、普段の生活の中でいちいち気づくことはない。むしろ、この散らかった部屋を片付けようとして、レシートの山をひっくり返したり、本棚から滑り落ちた何冊もの本から、ある一冊を手にしたときに、そのひどい散らかり具合と、情報の多さに気づかされたりする。(しばしばそこから片付けることを忘れて何時間も読みふけってしまったりするように)つまり、部屋を片付けて、そこから物を無くそうとする事と、散らかった部屋にある物がもつ情報に気づくことには、何か関係があるように思えてくる。

例えば、散らかった部屋を片付けていて、送ろうと思って忘れていた、雑誌の懸賞の応募ハガキを見つけたとする。そのハガキの下のほうに、小さな文字で「当選の発表は商品の発送を持ってかえさせていただきます」と、書いてある。つまり、この懸賞では、当選したかどうかは商品が期限までに到着するかどうかで分かることになっていて、「当選した」という情報は、商品という物質とともに送られてくる。落選した場合は、期限までに商品が届かなかった事で「落選した」と分かるわけだが、ここでは商品という物質の移動がないにも関わらず、「落選した」という情報が生まれている。これは、よくある、ごく当たり前の出来事なのだけれども、なんだか奇妙な事が起きているような気がしてくる。何も物が送られて来ず、なんの変化や出来事がないにも関わらず、「落選した」という情報を得る事ができてしまう。

そもそも情報は、それを解読するための文脈というか、ルールみたいなものを知っていなければ意味のないノイズでしかない。そのルールは、これから与えられるすべての情報の解読を保証する、可能性の束みたいなものだから、そのルールを知っていたり理解しているということは、そのルールの中で表現可能な全ての情報の可能性を、それが1 つの選択肢に確定する以前の薄ぼんやりとした雲のような状態で、知覚していることなのかもしれない。この雑誌の懸賞のルールでは、当選と落選という二つの情報があり、応募した時点で、当選か落選のどちらかの情報を得る事が約束されている。この懸賞が正しく実行されるためには、当選した人には商品が到着し、落選した人には何も届かないという状況が作られなければならない。当選、落選のどちらとも商品が届かなかったり、どちらにも商品が届いてしまう場合、当選と落選という状況の差がなくなり、その情報の輪郭が曖昧になってしまう。つまり、商品が届く事で知らされる、「当選」という情報は、落選した場合の商品/物質の不在によって確定した輪郭をもつことができる。そして、「落選」という情報は、商品/物質の不在と、ルールの履行が終了する期限によって確定している。ここまで考えてたところで、これは記号論で言われるところの「差異」のことだと気がついた。学生時代にすこしかじった程度の理解だが、例えば猫が、「猫」という言葉/記号と対応しているのは、その猫の周りの「アスファルトの地面」や、「ブロックの壁」「植木」と、猫が異なっているという、猫以外の物と「差異」があるからだ。また逆に言えば、「猫」という記号が猫と対応できる理由はたんにその差異でしかなく、かなり恣意的に対応しているという事だ。つまり、「猫」という記号が意味を持つためには、その猫の周辺に、その猫との差異をもつ、猫でないものが存在していなけれならない。そのことを、猫を軸にして言い換えれば、猫の周り、猫の外側にその猫がいない状態でなければならないということで、私が考えていたことは、猫の外側にその猫がいないという、不在についての事なんだと思った。

むかし、アーティストの日比野克彦が、NHK の番組に出演して話していた事を思い出した。いま気になっている物をひとつ持ってきて、それについて話すという企画で、日比野克彦は芸大の彫刻学科のアトリエに落ちていた、ひとつの石の破片を持ってきていた。それは、なんの事はないただの石なのだけれども、これは石彫の実習の際に出た破片のひとつだそうで、つまり作品にはならなかった石なのだという話をしていた。もしこの石の破片が、もう数センチか数ミリ、内側にあったのなら、この石は作品の一部になっていたかもしれないわけだ。石彫は、粘土での制作と違って、後から足りない部分を付け足す事が出来ない。だからその過程のほとんどを、不要な部分を掘って削り取る作業に費やす。それは、あるイメージを生み出す為に、イメージの輪郭の外側の部分から物質を無くしていく作業だ。そうして、周辺に何もない空間を作らなければ、いつまでもイメージは形にならず、そこから意味や情報が生まれない。

つまり、何か形ある物質から情報を読み取る時、それを可能にする差異として、物質の不在、空虚な空間や時間が必ず背後にあって、その情報を支えている。だから、ときどき、部屋を片付けなければいけない。

 



[略歴] (2013/06)

1983年生まれ.インスタレーション,パフォーマンス,ネットアート,彫刻,映像作品などを制作する.

主な展覧会に「ダングリング・メディア」(「オープン・スペース 2007」内「エマージェンシーズ!004」,ICC,2007),「Space of Imperception」(RadiatorFestival,イギリス,2009),「redundant web」(インターネット上,2010),「[インターネット アート これから]——ポスト・インターネットのリアリティ」(ICC,2012)など.

2010年、大学時代の友人である渡邉朋也と共に、架空のメディアアートの学校、思い出横丁情報科学芸術アカデミーを設立。以後、同アカデミーの教員兼学生として、夜ごと思い出横丁に集ってはメディアアートについての思索と実践を行っている。個人ではメディアアート、ネットアート、ライブパフォーマンス、彫刻など、様々な形態で作品を制作、発表している。

http://okikata.org/


[主な作品]

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「日々の記録」日々の風景を3Dで記録していくtumblr。