« mtrlzng III » | 谷口暁彦

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(撮影:来田猛)

『取れた銀歯は、舌でその穴の深さを測り、食べた米で穴を埋める。』

凸凹のパターンを作ること、その凸凹を読み取ることなどのバリエーション。


 

[essay: 情報と物質とそのあいだ]

 記録することは、記録媒体であるところのメディア(それは常になんらかの物質である)を、記録対象の出来事の振る舞いに応じて部分的に破壊したり、変形させることだ。レコードの原盤は溝のない平らなレコード盤を音声信号で振動するカッターで削り取る事で製作される。コンピューター内部のHDDやSSDも磁気や電子の配列のパターンを変形させる事で情報を記録する。(HDDもSSDも書込み回数が多くなると寿命を迎える。可逆的に見える変形も、最終的に不可逆な破壊へと繋がる。)つまり、なんらかの物質の破壊や変形によって情報は記録される。記録することが、破壊や変形であるならば、常にそれは記録対象である出来事の凸凹を反転した、例えばネガや、雌型のようなものとして存在する。記録を、破壊・変形のメタファで考えるならば、記録される瞬間において、記録対象の出来事と、記録メディアは直接/間接的に癒着した状態にあるといえる。この状態から記録対象の出来事が引き剥がされ、反転して凸凹が記録メディアに残されるという状態をイメージしてみる。

 再生することは、その雌型になんらかの操作を加え、記録対象の出来事を再び起こすことだ。記録メディアが文字通り、彫刻の雌型であれば、雌型に石膏を流し込み(雌型の凸凹を埋め戻し、記録対象の出来事と癒着した状態を再現すること)、雌型の側を取り除けば凸凹が再度反転してオリジナルの像を復元、再生することができる。この彫刻のモデルでは、記録される凸凹のパターンが直接、記録対象そのものと対応するため、記録メディアを複製することと、再生することが同義になっている。レコードであれば、オリジナルの出来事(音)がレコードの溝(物理的な凸凹)に変換されているため、再生はその凸凹をなぞって音へ変換すること、つまり記録の際の変換過程を逆転させることで実現される。彫刻のようにレコード盤面の凸凹そのものを復元することは、レコード自体の複製へと繋がる。(レコードの原盤 → 雌型 → 複製されたレコード)

 記録を残したメディアは、記録対象であった出来事を繰り返し再現することが可能になる。繰り返し出来事を実現可能であるならば、それは「技術」と呼ばれるものになる。「あの人は技術がある」と言うときにその「技術」という言葉が担保するものはそうした(高い可能性で)出来事を繰り返し実現できるという事態のことだ。つまり、技術を、記憶に基づいて反復する人間的な技能としてだけでなく、そうした物理的に固定された記録の凸凹から反復可能な動作として見ることもできる。金属を曲げ加工する時に用いる治具のように、記録とは、人にとって外在化された記憶であると同時に、物が記憶している状態の事だ。

 



◉[III]出展者プロフィール

谷口暁彦
メディア・アート、ネット・アート、映像、彫刻など、さまざまな形態で作品を発表している他、渡邉朋也とともに、新宿・思い出横丁で発見されたメディアアートにまつわるエフェメラルでアンフォルメルなコミュニティ、思い出横丁情報科学芸術アカデミーの一員としても活動。主な展覧会に「[インターネット アート これから]」(NTT ICC、2012)「思い過ごすものたち」(飯田橋文明、2013) 「オープン・スペース 2014」(NTT ICC、2014)など。
http://okikata.org/


 

◉主な作品

00[物的証拠 / Physical Evidence]

– 出来事は、ある特定の時間の範囲であり、それはすぐに過ぎ去っていってしまう。固定化も物質化もされないし、反復しない。けれど、その出来事の外側の、雌型のような部分で、物質に出来事の痕跡/証拠が残る事がある。そうしたもののうち、人以外の有体物による痕跡/証拠を物的証拠と呼ぶ。

– 物的証拠は、それが何であるかという事よりも、出来事の痕跡として、それがどのように落ちていたか、傷ついていたかというような事が重要な意味を持つ。そこに残された物自体は物語の主題にならず、そこから既に過ぎ去ってしまった、不在の出来事が物語の主題になる。