« mtrlzng II » | 思い出横丁情報科学芸術アカデミー [OAMAS] 谷口暁彦研究室、渡邉朋也研究室

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2014-08-01 60D 074.jpg2014-08-01 60D 077.jpg 思い出横丁情報科学芸術アカデミー 谷口暁彦研究室 『物的証拠』

協力者:永田 康祐

出来事は、ある特定の時間の範囲であり、それはすぐに過ぎ去っていってしまう。固定化も物質化もされないし、反復しない。けれど、その出来事の外側の、雌型のような部分で、物質に出来事の痕跡/証拠が残る事がある。そうしたもののうち、人以外の有体物による痕跡/証拠を物的証拠と呼ぶ。

 


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思い出横丁情報科学芸術アカデミー 渡邉朋也研究室 『ツナとマヨネーズ』

家に帰って、ズボンのポケットの中から鍵や財布を取り出すたびに、小さな紙片がいくつか床にこぼれ落ちる。それらを拾い上げて眺めてみると、ほとんどの場合は複雑に折りたたまれ、なんとも形容しがたいかたちを作り出している。そして、いつも違うかたちで生み出されている。
人によってはこれを、ただの〈レシートのゴミ〉だと思うかもしれない。でも、自分には誰かが自分のために折ってくれた〈折り紙〉のように思える。だから、自分が誰かのために、また誰かが誰かのためにこの折り紙を折ることができるよう、この紙片を分解・解析し、折り図(=折り紙の設計図)を作成することにした。ここにあるのは、その折り図をもとに研究室のメンバーが折ったものである。この折り図はウェブからダウンロードすることができる。
http://open-trash.net
このウェブサイトには随時折図を追加していく予定である。

 


 

[essay: 情報と物質とそのあいだ]

“マテリアライジングじゃないほう”

– 谷口暁彦

昨年に引き続きこの「マテリアライジング」展に参加しているが、この展覧会の名称である「マテリアライジング」という言葉に対しては大きな違和感を感じている。レーザーカッターや3Dプリンタといった、デジタルファブリケーション技術の普及を背景にして、「マテリアライジング展 / 情報と物質とそのあいだ」というタイトルの展覧会が開催された場合、多くの人はそれぞれの言葉をこのように理解するだろう。

「マテリアライジング」 = 3Dプリンタ等でデータを出力すること
「情報」 = コンピューターの中のデータ
「物質」 = 3Dプリンタ等で出力されたもの

一見自然な理解であるように見える。が、全くの間違いだ。このような理解では、まるで情報が純粋な”概念”であって、物質性のない存在であるかのようだ。しかし実際、コンピューター上のデータは、ハードディスクにある時は回転する金属板の磁気の痕跡として存在しているし、それが読み出され転送される時は電子の移動とその信号のon/offという物理的な支持(厳密には物質があることと無い事の差異)によって表現される。モニターに映し出される像もまた液晶パネルやピクセルといった物理的支持によって実現されているはずだ。

3Dプリンタ等で出力されたものは、人間がモニターを通じて想像したイメージを、あくまでも人間の身体のスケールや感覚器官で知覚可能な範囲内で表象したものでしかない。つまり、それは単に「人間向け」なだけであって、マテリアライジング(物質化)ではなく、人間向けの「翻訳」だ。その翻訳を「マテリアライジング(物質化)」と言って有り難がるのは、自分が人間であるという主体の確かさを疑わず、いたずらにその主体を強化するだけの極めてエゴイスティックな営みだ。

昨年も同じ「情報と物質とそのあいだ」というテーマでエッセイを書いた。基本的に今回と同じ批判を書いているので読んでほしい。
https://materializing.org/wp-content/uploads/2013/06/12-11s.jpg
https://materializing.org/13_taniguchi/
このエッセイの中で私はおおむね以下の様な事を書いた。

-物質は、それを読みとる人間がそこにいれば、常に様々な意味/情報を持っている。
-反対に、情報はそれが読み取られるために、常に物質的な支持体を持っている。

-けれど、必ずしも物質=情報ではない。
-例えば「当選の発表は商品の発送を持ってかえさせていただきます」という懸賞の仕組み
-「落選した」という情報は「商品が期限までに届かなかった」事で得られる。
-そこには物質の移動、物質による情報の支持がない。物質の不在で得られる情報
-情報は物質が「ある」ことと「ない」ことの「差」の中にある。記号論的な差異。
-ある物から情報を読み取れる時、それを可能にする差異として物質の不在、空虚な空間や時間が必ず存在している。

情報と物質という概念は対置しえないし、情報と物質の「あいだ」はそこに無い。そこに「あいだ」を産み出してしまうのは自らの身体と、その知覚の限界を想像しない怠惰とエゴイズムだ。情報は物質の存在と不在の差異の中に存在する。ならば、むしろ物質として存在する側でなく、知覚不能だが、確かにそれを情報たらしめている物質の不在の側へと眼差しを向ける事、それがこの「情報と物質」というテーマににおいて探求すべき、本質的な問題なのではないだろうか。

 


 

“情報と物質と私”

– 渡邉朋也

1.
情報とは物質であるし、物質とは情報だと思う。
ある現象が「情報」や「物質」になってしまうのは、私とその現象とのプライベートな関係においてであり、だから「情報」と「物質」との間に何かあるとしたら、それは私だと思う。

2.
近所に「聞き屋」という店がある。パン屋がパンを、果物屋が果物を売っているように、そこでは「聞く」という行為が販売されている。つまり、こちらのどんな話も聞いてくれるのだ。この手の店は全国に点在しているようなのだが、自分が住む山口では、店とは言っても無料でサービスが提供されている。
そこで去年、聞き屋の人に四則演算の問題を出して、答えてもらうという遊びのようなことをやっていた。10問、20問とそういうやりとりをしているうちに、だんだんと聞き屋の人を、電卓が実体化したものとして捉えられるようになってきた。さらに、聞き屋の人は音声入力にも対応しているので、便利だなとも思えるようになってきた。
ほかにも、中心部から右方向に3cmの直線を引く、そこから下方向に2cmの直線を引く…などの指示を出して、自分の代わりに絵を描いてもらうという遊びもよくした。聞き屋は無料だし、そもそも電気が不要なので、プロッターよりも便利だと思った。
たぶんコンピューターもテクノロジーのひとつである以上、人間の思考を含んだ身体機能を外在化させるかたちで誕生したのだと思うのだけど、高度化と日常化がたいへんな勢いで進展したせいか、そういう経緯を忘れてしまい、コンピューターの機能を通じて人間の機能を再発見するというケースが最近増えてきた気がする。

 



[出展プロフィール]

新宿・思い出横丁で発見されたメディアアートにまつわるエフェメラルでアンフォルメルなコミュニティ。おおむね夜になると立ち現れ、未明には消え去ってしまう。谷口暁彦と渡邉朋也がそのコミュニティに参加し、そこでの活動をまとめたもののひとつがCBCNETで連載されている「たにぐち・わたなべの思い出横丁情報科学芸術アカデミー」である。近年は、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]の「インターネット・リアリティ研究会」にも参加、その活動をシラフの領域にまで拡張している。

谷口暁彦

1983年生まれ。コンピューターや実家、インターネットといったメディア技術をベースに、自作のソフトウェアを用いながら、パフォーマンス、インスタレーション、映像作品、川柳などを制作する。

okikata.org

渡邉朋也

1984年生まれ。コンピューターやテレビジョン、インターネットといったメディア技術をベースに、自作のソフトウェアを用いながら、パフォーマンス、インスタレーション、映像作品、ダジャレなどを制作する。

watanabetomoya.com


[主な作品]

OAMAS
谷口暁彦「思い過ごすものたち」2013